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ヒロシマの記憶  幻の原爆フィルムで歩く広島

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商品番号 KEHC-002
収録時間 35分
価格 税込¥4,104(本体価格¥3,800)
カラー モノクロ
音声 STEREO
字幕  
リージョン ALL
ディスク種類 片面1層
POS コード 4941125600026
ISBN コード ISBN978-4-86308-355-4 C0820 \3800E
発売日 2011.08.06
VHS作品の有無  
内容 原爆が投下されて2か月。治療を受ける人々や医師と看護師、焼き尽くされた建物、ガレキに埋まる町の様子が、日本人の手によって撮影されたフィルムに映し出されている。
このフィルムは1946年「広島・長崎における原子爆弾の効果」という映画として海を渡り、米軍の教材となった。
現存する未編集フィルムはハイビジョン処理され、これまでより詳細な状況が確認できることとなった。

発売元:株式会社 日映映像
収録内容 1.相生橋
爆心から300mの相生橋は、原爆投下の目標でした。上からの爆風が水面に反射し、橋全体が持ち上げられました。欄干が落下した箇所もありましたが、通行には支障はありませんでした。相生橋は1983 年に架け替えられ、被爆の記憶をとどめるものは残っていません。
2.袋町国民学校〜伝言〜
袋町国民学校は爆心地から460m の至近距離に位置し、朝会で校庭にいた先生、生徒160 人はほとんどが死亡、木造の校舎は倒壊し焼けてしまいました。しかし鉄筋コンクリートの西校舎だけは建物の形が残り、多くの被爆者がここで治療を受けました。戦後も西校舎は袋町小学校校舎として使われていましたが、老朽化のため惜しまれながら取り壊され今はモダンな校舎に建てかわっています。西校舎の一部は隣接する「平和資料館」の中で保存されています。
3.広島城
戦国時代に築かれた広島城は、鯉城(りじょう)とも呼ばれ、西国屈指の規模を誇る城でした。明治時代には軍の拠点に姿を変え、多くの軍事施設が天守閣を取り囲むように建てられました。しかし、爆心地から980m の至近距離にあった国宝の天守閣は爆風により一瞬で倒壊。軍事施設は壊滅し、堀は被爆者であふれました。あの日、周辺の軍事施設では約1 万人の軍関係者が死傷。軍の歴史に終止符がうたれました。1958 年に天守閣、1994 年に二の丸や太鼓やぐらが復元。今は観光地
として知られています。
4.広島赤十字病院〜被爆
広島赤十字病院(現広島赤十字・原爆病院)は爆心地から1.5 qの距離にあり、収容患者250 人と病院関係者51 人が犠牲になりました。全焼をまぬがれた病院には被爆者がつめかけ、医薬品はすぐ底をつきました。原爆医療の要として被爆者治療を続けた当時の病棟の一部は、現在の病院の敷地内に保存されています。爆風が窓樅をねじ曲げて通り抜けた生々しい傷跡を刻んだモニュメントは、もの言わぬ被爆の証言者です。
5.西連寺・西向寺
原爆ドームから道路ひとつ隔てた場所に「西蓮寺」と「西向寺」があります。2 つの寺には、ほぼ真上から原爆の熱線と爆圧を受けた墓が今もたくさん残っています。フィルムには、1945 年10 月に、墓の石材に使われた花崗岩の変化を調べる学者たちの様子が残っています。熱線を受けて変化した墓石の様子は、60 年を経た今でも、はっきりとわかります。
6.天満橋と元安橋
天満橋は原爆で木造部分が燃えましたが、通行には支障がありませんでした。しかし、その後の水害で電車専用の橋とともに流失しました。元安橋は原爆直近の橋です。爆風により笠石は外側方向にずれ、欄干はすべて川に落下しました。1992 年に架けられた現在の橋には橋の名前を刻んだ大理石と両側の橋が再利用されています。
7.植物の被爆
原子爆弾は広島の植物にも大きな影響を与えました。爆心地から約2km の比治山などでは、爆風で木々がなぎ倒され、一部は熱線で自然発火しました。熱線による影響は広範囲で見られ、約4km 離れた己斐地区でも、植物が焼けた様子が映像に残されています。爆心地付近の植物は壊滅状態でした。大きな樹木も倒れ、続いて起こった火災で焼き尽くされました。しかし翌年、いくつかの木で、残った根元から新芽が出て、息を吹き返しました。現在、爆心地から500m 以内には、4 本の被爆樹木が被爆前と同じ場所で枝を広げています。
8.広島逓信局
広島逓信局は、郵政と通信を管轄する逓信省の中国地区管理機関でした。原爆で28 人が死亡、全員が重軽傷を負いました。隣の逓信病院には、被爆直後から多くの被災者がつめかけました。病院だけでは収容しきれなくなったため、逓信局の一部も病室にあてられました。フィルムには逓信局で暮らす患者と、その家族などの様子が映っています。逓信局の建物は、1975 年に取り壊されました。
現在、中国郵政公社中国支社となった旧逓信局の敷地内には、原爆慰霊碑と、局舎玄関の階段の一部が残されています。
9.一番電車
被爆2 ヶ月後のフィルムには、焦土と化した広島の街を走る電車の様子が撮影されています。原爆投下時は朝の出勤時間帯で、多くの電車が混雑していました。運行中の車両のうち、45 両が全焼および大破、計108 両が被害を受けました。電力の供給も止まり、電車は完全にストップしました。しかし懸命な復旧作業が進められ、被爆3 日後には己斐−西天満町間で折り返し運転が再開しました。2006 年現在、「被爆電車」は2 両だけが現役で走りつづけています。
10.広島県産業奨励館〜継承〜
原爆は、広島県産業奨励館(現原爆ドーム)の南東160m の上空580m で炸裂しました。3,000〜4,000 度に達する熱線と放射線、1m2 あたり35t もの猛烈な衝撃波が襲いました。職員らは全員が即死。周辺の町並みは壊滅し、人々の営みも消えました。戦後、取り壊しを求める声が起こる一方で、核の脅威を伝える象徴としてドーム保存の動きが高まりました。1966 年、広島市議会で永久保存が決定。全国から募金が集まり、翌春、初の保存工事が行われました。核兵器が人類に何をもたらすのか。原爆ドームは、傷ついた姿をさらしながら私たちに訴え続けています。
出演  
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